『音楽人生、こうして始まった』


 1964年、ラジオから
ビートルズの『プリーズ・プリーズ・ミー』が流れてきた。

 約1年後、今度は
ヴェンチャーズの『ダイアモンド・ヘッド』が流れてきた。


 16歳(団塊世代)の俺は
エレキギターにあこがれ、ブラブラ少年からテケテケ少年になった。



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2018・4・24(火) 雨

  私は非常に音感悪い。そして音痴である。
だから文化講演は喜んで引き受けるが
歌でのステージを引き受けるのはあまり好きでない。
おまけに歌を作るのもあきらめた事が何度かあった。
それほどまでに音楽に対して引っ込み思案だった私だが、
これまで3回くらいやる気が起きた事がある。
その中の1つが、ビデオカメラマンである氏家君との出来事である。

 私は中国貴州省へ旅した思い出にと
貴州省の歌『貴州旅情』を作った。
ついでに写真集を発表した。
そしたらなんと氏家君が歌と写真を合体してミュージックビデオを作ってくれた。
その歌と写真の見事な融合に感動!
これからの時代こういった「ミュージックビデオの時代なのか」と思ったら
居ても立ってもいられず、私はビデオカメラを買い、次の貴州旅行からは
写真用カメラを捨てて、ビデオの撮影に夢中になる。
そして貴州省の津々浦々を旅し歌を作り、映像を撮り続けた。
挙句の果てには氏家君と一緒に貴州に行き、
私は歌、氏家君は撮影と役割分担。
結局、私は16回も訪問し、24曲も作った。
そして思った。「私の音楽人生、貴州省の歌を作り続け、終えても良い」と。
そんな気持ちになると、こうも思う。
「私が死んだら、私の灰は貴州省に撒いて貰えれば嬉しい」と。
そしたら私の奥さんは「絶対にイヤ」と言う。

 貴州省の歌を作り続けて人生を終える、はずの私に大きな転機が訪れた。
それはなんと2011年3月11日の東日本大震災である。
我が宮城県(東日本)が大変な事になった。貴州どころの騒ぎではない。
地震・津波の実状を記録しなくては・・・。
それと歌を作るなら被災地の復興ソングを・・・。
そうこうしながら地元で活動を続けている内に
貴州省へは震災後1度も訪問していない事に気付く。
そして今になって思う。
これ以上貴州省の歌だけを作り続けて音楽人生を終えても
団十郎の楽曲の幅が広がる訳じゃないし、
貴州人に喜んで貰えても日本人に喜んで貰える訳じゃない。
 そんなこんな、冷静になっていろいろ考えてみると
非常に視野が狭くなっていたことに気付いた。
それとまた、震災だけに拘って歌作りをしていると
これまた暗く悲しい歌だけになってしまう。

そこで一念発起。

 「団十郎の歌は暗い歌とコミックソングが多すぎる」
 「団十郎にはスタンダードナンバーが無いに等しい」
そういった問題に気付き、近年新たに制作した歌が
『すばらしきかな人生』 『ダメな男のバラッド』 
『たんぽぽ』 『アブラカダブラ』 『桜咲く道』等である。

 さて今年、70歳になった団十郎。
作曲人生もそろそろ終わりになって来ている。(たぶん冗談に聞こえるだろうね)
でもあと1曲だけは必ず作る。
 「この歌こそ団十郎のスタンダードナンバーだ」
と言って頂けるような歌を残したい。
そのためには、「1曲入魂」、
急がずジックリと、練りに練って、チャレンジするのみ。



2015・2・28(金)
 
晴れ
 日本で巻き起こったエレキギターブーム。
さて、そのブームの前はいったい何ブームだったのか?
 答えは『ロカビリー・ブーム』

 そのロカビリーブームのきっかけは東京の日本劇場で開催された
『日劇ウエスタンカーニバル』(第1回、1958年)である。

 テレビから流れてくるエネルギッシュな若い歌手のポップな歌声。
平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、等々が
アメリカンポップスをウエスタンギターを抱え反り返って日本語で歌ってる。
なんと飯田久彦が登場した頃には客席から紙テープが投げ入れられ
ステージの踏み場もなくなるくらいにテープが舞っていた。
挙句の果てはそのテープが
飯田久彦の目に当たって歌う事すら難しい状態・・・。
 次のテレビ番組に登場した飯田久彦の目には眼帯がなされてた。
こういった狂乱とかしたロカビリーブームであった。
その頃、まだ小学生だった私の記憶としては
とにかく紙テープを投げるのが大流行した時代である。
(のちに紙テープは危険なので禁止となる)

 それではここで『ロカビリーとはどんな音楽なのか?』を書いてみよう。
つまり、黒人音楽のロックンロールと白人音楽のヒルビリー
融合してできた造語が
『ロカビリー』である。
 
 それでは、その
ロックンロールヒルビリーとはどんなものなのか?

●1950年代初期にアメリカ南部、メンフィスなどの地域において、
黒人音楽のブルースから発生したのが
ロックンロール

●白人音楽のカントリー
。特にド田舎で流行っていた
泥臭いカントリー音楽や田舎者を
ヒルビリーと呼んで小馬鹿にしていた。

 さて、ロカビリー歌手の代表がエルヴィス・プレスリーということになる。
そのエルヴィス・プレスリーのブームがきっかけで
日本でもロカビリーブームに拍車がかかり、
ポール・アンカやニール・セダカの歌も大ヒットした。

 そして1964年頃から起こったエレキギターブーム。
そのエレキギターが奏でるインストルメンタルサウンドに
酔いシビレタ日本人は日本のロカビリー歌手を
「メロディに乗りきれない日本語をカバーして歌う時代遅れな歌手」と、
そんな見方をするようになり、
日本におけるロカビリーは死語のようになってしまうのであった。
そしてロカビリー歌手として人気を得ていた歌手たちも
いつしか純粋な歌謡曲を歌いだす。
守屋浩、水原弘、平尾昌晃、北原謙二、弘田三枝子などなど。

 そんな時代背景もあり、
『日劇ウエスタン・カーニバル』の出場者の顔ぶれもいつしか
ロカビリー歌手からエレキギターバンドへ。
そしてGSへと交代して行くのであった。



2015・2・26(木)
 曇り
 1ヶ月くらい前の事。
40代くらいの男性が私に質問した。

 「団十郎さんが音楽を始めたきっかけは何だったんですか?」

 「俺が若者の頃、エレキギターブームが起こってね。
それでギターを握ったの」

 「あー、GS(グループサウンズ)ブームですか!」

 「・・・・・」(こりゃー、駄目だ!)

 つまり、エレキギターブームを知らない若い世代にとっては
エレキギターブーム イコール GSブームととらえているみたい。
しかしこの2つの現象は違う、『似ていて非なるもの』である。
そして思った。
こういった誤解がやがては正論になってしまう時代がやってくるのかも・・・。
ならば誰かがしっかりと日本音楽の歴史を書き記さなければいけないと・・・。
そこで私は、私の知る限りの日本音楽の歴史を書き遺そうと思った次第。
つまり、この事がきっかけでこのページをスタートさせたのである。

 
エレキギターブームは昨日も書いたように
アストロノウツの『太陽の彼方』、
ヴェンチャーズの『ダイアモンドヘッド』に始まり、
スプートニクスの『霧のカレルヤ』
サウンズの『さすらいのギター』
アトランティックスの『ボンボラ』
シャドーズの『春がいっぱい』
等々、
インストルメンタル(器楽曲)バンドによるブームの事である。
ようするに、エレキギターを主役とし、
メロディを演奏し、そのエレクトリックな音色に陶酔していた時代の事。

 (インストルメンタルとは、『instrumental』。日本語表記で
インスツルメンタル、インストルメンタル、インストゥルメンタル、
インストゥメンタル、またはこれらを略してインストなどとも言う


 さて、インストルメンタルバンドによるアマチュアのコンテスト(テレビ番組)
『勝ち抜きエレキ合戦』がエレキギターブームに更なる拍車を駆けた。
(放映期間は1965年6月23日から翌年の66年9月28日までの1年と3か月)


 この番組の当初はインストルメンタル中心のコンテストだったが、
やがてボーカルバンドも少しだけ出場するようになる。

 この番組のチャンピオンとなったザ・サベージがレコードデビューしたときは
ビックリしたもんだ。インストルメンタルバンドだったはずのバンドが
歌入りのレコードを出したからだ。そして大ヒット。
更には、既にプロのバックバンドとして活躍していたブルーコメッツも
歌入りのレコードを出し、大ヒットさせた。
この現象によりそれまで中心となっていたインスト・バンドブームは衰退して行き、
代わりに
日本人が書き下ろした歌謡ポップスを日本人のエレキバンドが歌う
と言ったバンド達が主流となって行くのであった。
つまり、この現象を
グループ・サウンズ、GSブームと呼ぶのである。

 GSブーム以前のエレキギターブームと言うのは、1964年くらいから始まり、
3年半くらいの期間を言うのである。
 テレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』の終了と共にエレキブームは去って行き、
その代わりにGSブームへと辿り着いたのである。

 そこでだ。勘違いされると困るのが、
我々エレキブームでギターを握ったアマチュアバンドは
エレキブームの後にやって来たGSブームに
素直に乗っかったのかと言うと、そうではない。
 日本のGSを小馬鹿にし、ビートルズやローリング・ストーンズや
アニマルズやクリームやジミーヘンドリックスなどを歌うようになるのであった。
そして、「ベンチャーズ命」だったアマチュアバンドの方々は自然と解散をし、
結婚をし、極平凡なサラリーマン生活を育むのであった。
私の場合はプロになりたくてエレキギターを必至と握り続けているのであった。



2015・2・25(水) 晴れ
 日本にエレキギターブームが来る以前の
楽器は何が主流だったのか?
それはクラシックギターとウクレレだった。
 
 1958・9年にハワイアンブームが来た。
バッキー白方とアロハハワイアンズの『南国の夜』、
そしてエセル中田の『カイマナヒラ』が爆発ヒットした事により、
ハワイアンブームとなった。

 一方、日本歌謡界の王道と言うべき作曲家である古賀政男の
作り出すメロディは戦前・戦後に亘って『古賀メロディ』と呼ばれ、
日本人の琴線をがっちりと掴んで離さないものとなった。
つまり、歌謡曲の『源流』の大半を彼が占めていると言っても過言ではない。

 日本歌謡界でトップのヒットメーカーとなった彼の
メロディとクラシックギターは切っても切り離せないものである。
 古賀メロディとクラシックギターの組み合わせによる相性。
どこがそんなに良かったのかと言うとそれは『イントロ』である。
『湯の街エレジー』『酒は涙か溜息か』『影を慕いて』『悲しい酒』、
これらのイントロの美しさ。
これにあこがれ日本人はクラシックギターを握った。
とは言え、日本人の多くがギターを買って持っていた訳ではない。
ほんの一部の人がギター教室に通い習う程度である。
日本はまだまだ戦後を引きずっていた時代の古賀政男ブーム。
だからレコードを買うにしても蓄音機のある家は一握り、
ギターは買えず憧れる程度であった。
つまりギターを買うまでの裕福さは国民にはなかったと言う事。

 さて、1958年に起こったハワイアンブーム。
それによって日本歌謡界にも大きな変化が起きてきた。
ヒットする歌謡曲のバック演奏にスチールギターやウクレレが入ってくる。

その主役が『和田弘とマヒナスターズ』。プラス、作曲家『吉田正』が作る
ソフトなメロディ。このドッキングが日本の新しい歌謡曲を生み出した。
 『誰よりも君を愛す』『寒い朝』『愛して愛して愛しちゃったのよ』
『東京ナイトクラブ』『哀愁の街に霧が降る/山田真二』等々。
これらはいずれも古賀メロディとはまったく違う
新しいサウンド『ムード歌謡』であった。

 そして戦後は終わり、1964年、日本中に吹き荒れた西洋のサウンド。
エレキギターブームの到来である。
このブームの主役となったのが戦後世代、つまり我々、団塊の世代である。
さてこのブームのきっかけとなったレコードは何だったのか? と言うと
ジ・アストロノウツの『太陽の彼方』だった。
それまで聴いたことがなかった ♪ ピタピタピタ ♪ と言う
サイドギターが奏でる音は激しさの中にも異次元のような神秘的な音に聴こえた。
奏法はアンプにリバーヴを効かせ、絃をミュートさせて奏でる音である。

 この『太陽の彼方』の次にカルチャーショックを受けた曲と言えば
ヴェンチャーズの『ダイアモンドヘッド』だ。
この曲の ♪ テケテケテケテケ ♪ というトレモロがダイナミックだった。

 以上、それらのサウンドによってエレキギターブームの到来となるのであった。



2015・2・24(火) 晴れ
 歴史を語るとき、必ず漏れる人がいる。
今回もその無礼を承知の上、独断で語るとしよう。

 日本人最初のシンガー・ソング・ライターは誰か?
 私は戦前の事はまったく分からないので
私が分かる範囲内で語らせてもらう。
それと何を基準にするかと言うと、
シンガー&ソング&ライターのこの3つの部門で
大ヒットを飛ばした人に限らせてもらう。
でないと、「詞・曲を作り、レコーディングをしただけの人」なら
結構いるはずだろう。でもヒットしないのでは
口先だけの元祖シンがー・ソング・ライターになってしまう。

 そこでだ、私が子供の頃、テレビを観て
「この人こそが作詞・作曲・歌手の全てをやってのけた最初のスターだ」
と感動した歌手を紹介しよう。
 その歌手の名前は『平尾昌晃』だ。

 俺が小学校5・6年くらいだった。
彼は『星は何でも知っている』(1968年)の大ヒットのあと、
2曲目の歌『ミヨチャン』も大ヒットさせた。
その『ミヨチャン』をテレビで歌うとき、司会者に向かってこう言った。
 「この歌は僕が作詞・作曲したんです」

 これを聞いたとき、俺は思った。
「へえー、凄い人がいるもんだ。全部自分1人でやるなんて、彼は天才だ」
ってね。
 だから彼は私の中で、日本の最初のシンガー・ソング・ライターなのだ。
でも、その後の彼は作詞の部門を他人にゆだね、作曲1本に絞った関係上、
ライターとしては該当しないかもね。

 だとすると、次にくる元祖シンガー・ソング・ライターは誰か?
 加山雄三は作詞はしないので外れる。
ならば次に来るのは『空に星があるように』の荒木一郎かもしれない。
もしくは同時期にレコードを出した
『ザ・スパイダース』の『かまやつひろし』かもしれない?
彼の作品『フリフリ』は『ブルー・コメッツ』の『青い瞳』の発売より
ほんの数か月ばかり早くに発売している。
でも大ヒットしたのは『青い瞳』である。
『フリフリ』は大したヒットはしなかった。だから少し『不利・不利』なのね。

 ところで、のちに大ヒットを飛ばす、『吉田卓郎』だって、
それら以前のアマチュア時代から作曲をやっていただろう。
そんなアマチュア時代まで遡って行ってしまうと答えなどは絶対に出てこない。

 そんな訳で、私にとっての元祖シンガー・ソング・ライターは
『平尾昌晃』と言うことでまとめさせて頂きたい・・・。




2015・2・23(月)
 曇り
 歴史を語るとき、必ず漏れる人がいる。
そしてそれに詳しい人は必ずクレームを入れる。
今回はまだ何のクレームも付いていないが、
入れられる前に番外編として書いておこう。

 和製ポップスの元祖と言ったら、この人を外す訳にはいかない。
『加山雄三』と『荒木一郎』だ。
ただこの両名は歌手の前に俳優として知られていたし、
デビュー曲が歌謡曲っぽいのと、
ソロシンガーとしてデビューしていたので
エレキグループとしては見られなかった。
しかしエレキブームに合わせて出して来た楽曲が凄い。
エレキギターを抱え、
加山雄三は『青い星屑』、荒木一郎が『今夜は踊ろう』だった。
これらは和声ポップスで大ヒットする。しかしあくまでも
GS(グル―プサウンド)とは別な評価だった。
(この辺の解釈が微妙なところである)
ただし加山雄三のバックバンドの『ランチャーズ』は『真冬の帰り道』
と言うヒット曲を出しGSの仲間入りをしている。
ただし冒頭にも言ったように両名共、
数ある和製ポップスの元祖の中の1人であることは間違いない。

 さて次回は元祖シンガー・ソング・ライターは誰か?
と言う話をしよう。



2015・2・21(土) 晴れ
 エレキバンドが演奏しながら歌うスタイルだけでも
当時はカルチャーショックだった。
中でも私がビックリしたのはアメリカのサーフ・ロックバンドの
『ザ・サファリーズ』をテレビで観た時だった。
 日本のフジテレビで放映されていた外国のテレビ番組『カレン』
の主題歌を歌っていたのがサファリ―ズ。

 ある時、このサファリーズが『カレン』を歌っている映像が放映された。
そしたらなんとドラム担当がドラムを叩きながらメインボーカルを
やっていたのだからビックリした。「ドラムが歌ってる?」ってね。
それどころか、そのドラマーが歌うために使ってるマイクスタンドが
なんと、折り曲がっていたもんだから、驚いたのである。
それまでの日本人はマイクスタンドは直立に立っているものだけしか
見た事がなかった。それが横にも曲がるんだから、
「驚き、桃の木、山椒の木」だ。
そして思った。「西洋人って頭がいい!」ってね。

 あとビックリしたのが、イギリスのバンド『ザ・ハニーカムズ』だ。
このバンドのドラムが、なんと女性だったのだ。そのドラムの女性が
股を広げドラムを叩き、歌も歌っている。
オラは「西洋の女性は男勝りだなや」と驚いたもんだ。
(当時の大和撫子では考えられない光景だった)



2015・2・20(金) 晴れ
 エレキバンドのメンバーが楽器を弾きながら歌うって行為は
現代では変でも何でもない事だ。
しかし当時の私はブルーコメッツやサベージが
バンド自ら歌を歌ったのを観て、凄い違和感を覚えた。
そんな記憶がある。
 それまでの日本人はバンドの事を楽団と呼び、
歌手のバックで演奏をする人達と思っていたからだ。
たとえ洋楽の歌を歌うバンドグループであってもメインボーカルは
必ずいた。例えば、
森山加代子・坂本九・尾藤イサオ・飯田久彦・弘田三枝子・中尾ミエ等々。
 
 その程度の考えしかなかった日本の歌謡界に
メンバー全員が楽器を演奏しながら歌を歌うなんて事は
衝撃的であった。

 バック・ミュージシャンでしかなかったエレキグループが
最初に歌を歌ったバンドと言うのが、ブルー・コメッツだそうだ。
それも、ひょんな事件からスタートしたそうだ。

 (以下、ウィキペディアを引用)
 ブルー・コメッツはそれまで
いろんなロカビリー歌手のバックバンドとして活動していたそうだ。
 ある日、尾藤イサオのバックバンドとしての仕事の為、
開催地行きの列車に乗った。
ところが肝心の尾藤が列車に乗り損ね、開催が不可能になってしまった。
観客に尾藤が来ていないことを説明したところ、
観客から「そんならお前達で何か歌ってくれ」と求められ、
井上忠夫が即席で歌ってみた。
するとそれが観客に大いに受けたことから『歌うバンド』としての
本格的なブルー・コメッツ独自の活動が始まったとされている。
このような経緯から日本における歌うエレキバンド(グループ・サウンズ)
が誕生し、その先駆者となった。



2015・2・19(木) 曇り
 この時代、日本の歌謡界は
舟木一夫・西郷輝彦・三田明等の10代(戦後生まれ)の若者が大ブームとなっていた。
しかし私は日本の音楽にまったくの無関心だった。
ひたすら洋盤ばかり聴いていた。
 つまりこの当時はまだ和製のオリジナルポップスがなかったのだ。

 ところで和製ポップスの第1号と言うべき歌が1965年4月に
エミージャクソン(ハーフ)によって『涙の太陽』出された。
続いてジャッキー吉川とブルーコメッツが1966年3月に
『青い瞳』を出した。
ところが面白い事に両名とも英語で歌っている。
そうなんです。日本の和製ポップスの始まりは
英語バージョンだったのです。
 
 エミージャクソンは日本に住んでいたのに
外国の謎のシンガーのように宣伝されてるし、
作詞家の湯川れい子は日本名で書かないで
『作詞:R・ホットリバー』なんだもんね。
「オラ、すっかり外国人だど思ったもんね』
それにブルー・コメッツも英語で歌っているし・・・。
こりゃー、てっきり洋楽コンプレックスだ。
(これこそ当時を知る歌謡界の変遷というものなんです)

 ところでこういったレコード界のこぼれ話だが、
その当時、日本のレコード各社の宣伝部には
宣伝部門が2つあったそうだ。
『邦楽(歌謡曲)宣伝部』と『洋楽宣伝部』。
ところが初めて発売される和製ポップス、
おまけに英語で歌っている。
このレコードを洋楽部が扱うのか、邦楽部が扱うのか、で
問題になったそうだ。
 つまり、この出来事こそ、
『和製ポップスの始まりだった』と言えるのである。
 ちなみに『涙の太陽』は洋盤として発売された。

 ブルーコメッツが英語盤『青い瞳』を出した4か月後、
勝ち抜きエレキ合戦でチャンピオンになった『ザ・サベージ』が
『いつまでもいつまでも』(66年7月)を発売した。
 この歌は日本語で歌っている。そして爆発的に大ヒットする。
このサベージとブルーコメッツのグループのヒットにより
日本ではグループ・サウンズの夜明けとなるのであった。
 サベージの『いつまでもいつまでも』の大ヒットの影響を受け、
ブルー・コメッツが『青い瞳』の日本語盤を発売しなおし
更なるヒットを飛ばしたのである。



2015・2・18(水) 雨
 日本でエレキブームを巻き起こしたのは
インストバンドでは
 ダイアモンドヘッド、パイプライン、ウォークドントラン、
10番街の殺人の『ヴェンチャーズ』
 太陽の彼方、ホットドッキングの『アストロノウツ』
 霧のカレリア、ジャニーギターの『スプートニクス』
 春がいっぱいの『シャドーズ』
 さすらいのギターの『サウンズ』等々。

 一方、ボーカルグループは
ブリティッシュ・ロック(イギリスのバンド)の
ブームが主流となった。
 『ビートルズ』『ローリング・ストーンズ』『アニマルズ』
『ホリーズ』『ハーマンズ・ハーミッツ』
『デイヴ・クラーク・ファイヴ』『サーチャーズ』等々。

 それでだ。この時期、
アメリカの音楽シーンはどうなっていたのかと言うと、
ロックンロールのエルビス・プレスリーは下火になりつつあり、
気を吐いていたと言えば『ビーチボーイズ』だった。
それよりなにより、アメリカではフォークソングのブームになっていた。
 風に吹かれての『ボブ・ディラン』、 虹と共に消えた恋の『PPM』、
500マイルの『ブラザーズ・フォア』、 
花は何処へ行ったの『キングストン・トリオ』等々。

 日本でもフォークバンドはあったが、
それは大学生達によるカレッジ・フォークくらいだった。
この当時、ローカルに住む若者達はフォークグループの事を
『お坊ちゃまグループ』『エリートグループ』程度にしか
思っていなかった。
なにしろこの頃、エレキバンドをやっていた連中は
世間から『不良』と呼ばれていたのだから。
そんな訳でフォークソングをやるバンドのブームは
エレキバンドブームより少し遅れてやってくるのであった。



2015・2・17(火)
 曇り
 エレキギターブームの火付け役は
ヴェンチャーズとビートルズ、そしてもう1つ、
テレビ番組があった。フジテレビの『勝ち抜きエレキ合戦』である。
(1965年6月23日から翌年の66年9月28日までの1年と3か月)
宮城県では仙台放送テレビで放映していた。

 この番組は仙台にもやって来た。
1965年(昭和40年)の秋だった。
この番組の公開録音が仙台の県民会館で開催された。
(2週分を収録した)
私はこの時、会場に見学に行き写真を撮っている。
私のHP『音楽ばなし』のページに写真を掲載しているので御覧あれ。
2014年3月27日のところです。

 この番組は30分番組で毎週5組のアマチュアバンドが登場。
テクニックを競い合う。4週勝ち抜くとチャンピオンになる。
 
 仙台の大会では仙台のバンドが出演した。
1週目は仙台の育英高校のバンド
『アブノーマルズ』(現・庄司企画社長、庄司元さんがリーダー)が
アストロ・ノウツ・バージョンの『アンチェイン・マイ・ハート』を歌い
1週勝抜きチャンピオンとなった。
 2週目にアブノーマルズは『ジ・アニマルズ』の『悲しき願い』を歌ったが
宮城高専高校のインスト(演奏曲)バンドの『ザ・サーフズ』に負ける。
このサーフズは2週勝ち抜いて3週目に東京のインストバンドの
『ザ・サベージ』に負けた。
 このサベージはイギリスのバンド『ザ・シャドーズ』
のコピーバンドで4週を勝ち抜きとうとうチャンピオンとなった。
 サベージのベースに俳優・宇野重吉の息子『寺尾あきら』がいた。




2015・2・16(月)
 晴れ
 17歳(1965年)の時、ベンチャーズブームが到来。
私はエレキギターにも憧れたが、
当時オートバイの修理工だったので
モトクロスレーサーにも憧れていた。
そこでどちらを選ぶか迷ったが結局エレキギターの方を選んだ。
 私は仙台の『ミドリヤデパート』から
1万8千円のエレキギターを10ヵ月月賦で買った。
その頃の私の月給は中卒なので8千円くらいだったと思う。

 ギターより高いのがギターアンプだ。
ちゃちな家庭用のアンプでも5万円くらいはした。
でも広いコンサートホールや野外で演奏するには
18万円くらいのでないと会場に響き渡らない。
 そんな訳で月給8千円の私としては
アンプまで手が回らない。
1万8千円のギターを月賦で買うのが関の山。
なにせ8千円の給料から家に食いぶちとして
3千円を入れていたものだから、
自分の自由になるお金は月5千円しかない。

 ギターは買ったがアンプは買えない。
 アンプは無いけどどうしてもアンプを通してギターを弾きたい。

 話に聞いた事があった。「ラジオに繋げばラジオから音が出る」と。
そこで早速、家にあるラジオに繋いでみた。
そして格好よく ♪ テケテケテケテケテケテケテケ ♪ と弾いた。
すると突然ラジオから凄い音が出た。
ところが出たのは ♪ テケテケテケ ♪ まで。
それ以降はラジオがパンクしてしまった。
たぶん真空管かスピーカーが壊れたんだろう。
 夜、ラジオの持ち主の兄貴が帰ってきたら、
私はスコタマ怒られてしまった。

 今になって分かるのだが、
当時のラジオの出力とギターアンプの出力では
天と地ほどの差があったのだ。



2015・2・15(日) 晴れ
 我々が子供の頃は、歌はラジオから流れてくる歌で覚えたもんだ。
覚えたはいいが、歌っていて合っているかどうか確かめる術がない。
第一、アカペラで一人で歌っているものだから、
どれだけ伸ばすのか、何拍目から入るのか、なんて考える必要もなく、
好き勝手に歌っていた。そしてそんな自分の歌唱力に
「上手い。天才だ!」と錯覚し、酔いしれてもいた。
(私の音感・リズム感の悪さはこういった環境が原因だ)

 それに比べ現代ではカラオケは有るし、録音プレーヤーもあるので
「リズムが合っているか? 歌が上手いか? 下手か?」が
即座にチェックできるので
音感や歌唱テクニックが上達する環境がある。羨ましい限りだ。

 さて、譜面も読めない私がエレキギターを買って、
『エレキギター入門書』だけを頼りに独学で奏法を学んだけれど、
そもそも音感・リズム感が極めて悪かった私はなかなか上達がしない。
 しかし上達できない原因が
自分の音痴にあることにまだ気付いていなかった。
それどころか私は勝手に
「人間の能力(才能)は平等に与えられているものだ」
と信じていたものだから、誰もが同じように努力さえすれば
同じテクニックが付くものだと思って、毎晩黙々とギターを弾いていた。

 当時の我が家は平屋で小さい部屋が3つしかなかった。
そこに7人も寝ていた。
そんな環境の中で、夜中までギターなんか弾いていたら怒られてしまう。
だから仕事を終え、帰って来て晩飯を食うとすぐに真っ暗な外へ出て
増田川の土手を歩きながら毎晩ギターの練習をしていた。
 雨が降ると増田川(バイパス)の橋の下に行き
雨をしのぎながらの練習だった。

 ≪続く≫




2015・2・14(土) 晴れ
 敗戦直後の国に生まれ育った我々の中に
絶対音感を持った者なんていたのだろうか?
私はそんな言葉すら聞いたことが無かった。
第一、ギターですら近所の何処の家にも無かったし
ピアノなんて、もっての外だ。
テレビもない、楽器もない、プレーヤーもない。
そんな環境の中では全員の音感が悪くて当然。

 私は中学を卒業してすぐに働き、
夜は定時制高校(夜間高校)へ通った。
しかし高校を半年で中退する。
そして夜は友人たちと遊び回っていた。
そんな時にエレキギターブームが到来したのである。
私は急に夜遊びを止め、エレキギターを月賦(ローン)で買い、
ギターの練習に没頭した。
しかしエレキギターの場合、グループが必要である。
しかし私の家の周りにはエレキギターに狂った者はいなかった。
そこで無理やり近所の後輩の家に行き、
私のギターを貸してドレミファソラシドの弾き方を教えた。
たった1本線で弾くドレミファである。
 次の日、また訪問し、「昨日教えたドレミファを弾いてみろ」
と言ってギターを貸した。
すると彼は、口で「ドレミファソラシド」と言いながら
ギターの絃を弾いた。しかし弾いたはいいが、
絃では「ドシラソファミレド」と鳴っていた。
つまり合っていたのは「ド」だけである。
それでも違いが分からず手と口が同時に進行するのだから神業である。
 そんな事があって、私は彼をメンバーにすることをあきらめた。

 ≪続く≫




2015・2・13(金) 曇り いちじ小雪
 私が16歳の時にビートルズ旋風がスタートする。
(1964年2月29日、ラジオ『9500万人のポピュラー・リクエスト』に
ビートルズの『シー・ラブズ・ユー』が15位で登場)

 それから約1年後、ベンチャーズ旋風がスタートする。
(1965年1月14日、同番組にベンチャーズの
『ダイアモンド・ヘッド』が19位で登場)

 それ以降、日本中にエレキギターブームが起き、
若者はエレキギターを買ってエレキバンドを結成する。
譜面なんて誰も読めないけど、とにかくギターを買った。
そしてほとんどが挫折していく。
 ところが私は弾けないけどあきらめることはなかった。
ブームが始まってすぐの事もあり、私の近所にはギターを弾ける人なんて
誰もいなかった。そこで『エレキギター入門』の本を買って
一人で練習を重ねた。
まず最初に覚えたのは ♪テケテケテケテケ♪ のトレモロ。
そして左手のコードの握り方、そして右手のピッキング・・・、
とりあえずこれだけ覚えただけで興奮したものだ。

 ≪続く≫



2015・2・12(木) 晴れ
 「譜面が読める」という事はどういうことか。
それは譜面を見てすぐにスラスラと歌える事を言う。
だとすると私は譜面が読めない。
私の場合は譜面を見ただけではメロディが出てこない。
楽器が無ければメロディがつかめないのだ。
 リズムは正確に読める。ドレミファソラシドも分かる。
けれど、たとえば ♪ミソソーミレミララー♪ と書いてあったら
すぐに音程がつかめない。そこで楽器を使い
♪ミソソーミレミララー♪ と弾いてみる。そして
「その楽器のメロディを聴いて初めてメロディが分かる」と言う話。

 それでは作曲はどうやって作るのか?
ギターのコードを適当に弾きだす。。
そして適当に歌いだす。詞はでたらめ言葉を発しているだけでいい。
そのうち良い感じの目新しいメロディを発見する。
あとはそれに続けて目新しいメロディを繋げて行くだけ。
これで完成する。

 散歩しているときなどは楽器がないので、
適当にでたらめ歌を歌いながら歩くだけで曲ができあがる。
 この「デタラメ歌を歌う」と言うのが重要なキーワードなのだ。
作曲と言うのは所詮
デタラメな(これまでに無い)メロディの組み合わせでできるのだから。
すでに存在するメロディを歌って歩いたところで
新しいメロディが浮かぶわけがない。

 ところがだ。散歩中に良いメロディが浮かんだの良いが
忘れる危険性がある。
そうなると忘れないようにと必死で何度も歌いながら家を目指して帰る。
ところが帰る途中で別な事をふと考えてしまう時がある。
そして家に着いてみると
「あれっ! メロディを忘れてしまったよ」なんて事もある。

 ≪明日に続く≫